(前編)コミュニケーションのハードル:カウンセリングについて

前の内容だけでは救われないので、どうやってハードルを越えたのかの話をしようと思う。


自分がコミュニケーションの問題を乗り越えるにあたり必要だったのは、過去の精算と、コミュニケーションをする際に必要な心構えと聞き方のスキルを身につけることである。


前半は通院、後半は仕事場での実戦である。

一度に多くの文章を書くと大変疲れることがわかったので、ブログでは前半と後半に分けて書いていこうと思う。



まず前提として、仕事場に出ている時点で、過去の精算はあらかた終えていた。これについては、大学時代に必ず解決しなければならないと思い、様々なことを行なっていた。瞑想や座禅、音楽、ケア論、依存症の理論などを学んで取り組んでいたが、最終的に一人での実践には限界が訪れ、カウンセリングに通うことになった。

コミュニケーションの課題に気づく前の話をなぜするかというと、過去の精算というフェーズを乗り越えていなければ、スキルを身につけることはできなかっただろうと考えているからである。

具体的には、「相手の言葉の裏を読まなくてもいい」という認識を自分に与える必要があった。



カウンセリングに行くようになった経緯から書いていく。

元々物心ついたときから私には自傷癖があり、大学に入って一旦収まってはいたが、大学4回生の夏頃から激しくぶり返した。

気が遠くなるまで頭を殴る、というのが癖だったため、当初は傷跡としては残らない方法だったのが、徐々に傷跡として残ってしまう方法を選ぶようになってしまった。(なぜ自傷をするのかということについては長くなるので別で書こうと思っている)

社会人になるしさすがにこれはまずいと感じて、ゼミの先生からクリニックを紹介してもらってカウンセリングに通うことにした。

ちなみにカウンセリングに通うと決めてから電話をかけるまでに1週間かかった。電話口では緊張してほとんど話せなかったが、なんとか予約を取ることができた。


メンタルクリニックといっても、相手は精神科医ではなく臨床心理士だ。カウンセリングを行い、医師の診療と投薬が必要であるレベルと判断されれば病院にも繋いでもらえる場所を紹介してもらった。最初から精神科に行かなかったのは、自分の状態が、現在の環境によるものではなく、過去を引きずってきたために生まれたものだと理解していたからだ。薬を飲んで気持ちを落ち着けたとしても、自分の過去を整理しない限り治らないという確信があった。

毎週60分、15400円の治療である。非常に高価だが、結果としては行って良かったと思う。

話した内容は様々でほとんど覚えていないが、まず、なぜ自分が今苦しんでいるのかを紐解いていった。そのあと、その苦しみはなぜ起きているのかを深掘りしていく。

流れとしては以下のような感じである。

・今辛いと思っていることを話す

何が辛かったのかを具体化する

なぜ辛いと感じるのかを言語化する

どんなときに自分が辛くなるのかを知る

過去の親や周囲への怒りの言語化

親や周囲にしてほしかったことの言語化

現在はそれを得られているか


最終的な内容は、「自分を好きでいてくれている人の存在を認め、自分が愛されているということを知る」ことに集約した気がする。

それまでは、周囲に気持ちを裏切られ続けたことで、誰からも本当の意味で自分が愛されてはいないと考えていた。それを見直し、自分を傷つけている人間からは距離を置き、自分に関わり続けてくれている友人に目を向けるようになろうというふうに自分で結論づけることができた。


カウンセリングというのは非常に体力を使う。押し込めているものを引っ張り出すのだから、押し込めることを繰り返していたそれでとは全く逆の行為をするのだから、それは疲れて当然である。

私は大学で心理系の勉強をしていたから、カウンセリングがどのような場所であることを知っていたし、どのような話をするべきかも知っていたからスムーズに治療を進めることができたのだろう。カウンセリングは誰かに答えを導いてもらう場所ではなく、自分で勝手に治っていく場所である。膿を吐き出し、自分を再構築する場所である。カウンセラーがすることは、相手が感じていた気持ちを否定せず、感情の発露を促すことしかない。


私のイメージだが、何かを思い出すとき、私は無数にある引き出しの中から一つの取っ手を掴むようなイメージを持っている。

嫌な記憶を思い起こしそうになった瞬間に、その取っ手から手を離して鍵をかけ、ポーンと遠くに置くというイメージを繰り返し行なっていた。

その結果何が起きたかというと、様々なことを思い出せなくなり、常に自分の頭の中に霧がかかっているような状態になってしまったいた。引き出しを遠くにやるどころか、引き出しの開け方を忘れてしまったようだった。

(このイメージを行い始めてから思考能力が急降下して学力が明確に下がったので絶対にやらないでね)

カウンセリングでは、開け方を忘れてしまった引き出しを開けるための手助けをしてもらったと思っている。封印していた記憶を呼び起こして、自分がどのように受け止めているのかを確かめていった。


そして半年ほど通院し、卒業までになんとか寛解し、めでたく社会に出れることになった。



私は過去の精算が必要だと思っているけども、さまざまな人に囲まれ接していくうちに、過去を気に留めなくなることは往々にしてあることだ。それが1番幸せだ。

しかし、相手の好意を受け入れられないとか、裏切られるんじゃないかといつも不安だとか、どうしても人付き合いで無理をしてしまい全てを捨てて失踪したくなるとか、常に相手を疑ってしまって疲れるとか、そういったことを常日頃から思ってしまうような人にはカウンセリングをおすすめする。そんな人はもっと楽になってもいい。


私のように、嫌なことをずっと続けなければならなかった人は、好きなことばかりしている人のことをどうしても妬ましく感じてしまう。好きなことをしてきた人間というのは、多くの場合自信に満ちていて、友人に囲まれている。そのような人間を認めることは、自分が嫌々してきた努力が無駄なものだったと認めることに他ならない。そもそも好きに生きるなんて選択肢が自分の人生になかった人間からすれば、そのような人間は許せなくて当然なのである。

だから、自分がいざそのような人間になれるチャンスが来たとき、それを拒んでしまう。「そんな楽観的な人間になってやるものか」と意固地になってしまう。苦しんできた過去の自分を裏切ることになると思い込んでいる。


私は楽観的な人間を羨ましい思いながらも、なることに罪悪感を感じていて、自分を苦しめているあんなやつと一緒になるものか、と意地になっていた。しかし自分が楽になるためにはその気持ちと折り合いをつける必要がある。

自分が苦しまないようになっても、人を簡単に傷つけるような自分の嫌いな人間にはならない。このことを受け入れるのが1番大変だったかもしれない。自分の苦しみは自分自身のアイデンティティの一つでもあるので、それを手放すことは傷ついてきた自分を置き去りにすることを意味する。

過去の自分を抱えて生きていると、その苦しさを恨みながらも愛おしさを感じてしまう。手放すタイミングがあるにも関わらず捨てられない。連れていかなければならないと背負っている過去の自分自身は、案外勝手に歩き出すこともある。背負わなくても勝手に生きていくくらいには成長してることもある。


カウンセリングにおいて、自分はもう楽になっていいのだと受け入れられたことが1番の収穫だろう。顔色を常に伺わなくても怒鳴られるようなことはないし、聞いたことにはちゃんと答えてくれる。自分の気持ちを明かしても、それを無かったことにはしない。そうしてくれる人の方が圧倒的に多いのだ。少なくとも、私の周囲はそうなはずだ。


最後に、カウンセリングに行く大きなきっかけの一つになった、友人が言ってくれた一言を忘れないように書いておく。

「〇〇(私の名前)は自分に興味がありすぎるんだよ」

他人のことばかり気にしてしまうと自分では思いながら、友人は私をそのように評価していたのだった。この言葉が転機となり、私は自分自身に囚われていることを自覚させられ、自分の外側に意識を向けるようになった。相手の顔色を伺って人の気持ちを読むというのは、相手自身ではなく、自分が勝手にイメージした相手と会話する行為なのだと気づき、それが逆に失礼なことであるのだと考えられるようになった。


自分が抱えている問題の原因が本当はどこにあるのかを自覚し、自分を解放していく作業がカウンセリングだと思っている。

カウンセラーもピンキリで、自分に合う合わないがあるため確かにハードルが高い。でも試さないよりは試してみた方がいい。1ヶ月は通ってみてほしい。私は行ってよかった。



ここまでで、私は相手の気持ちを読みながら話さなくてもいいということを理解できた。しかし、人の気持ちを読まずに行うコミュニケーションをしたことがないため、どうやって会話をするのが正しいのかがわからない。

その方法を後半に書く予定である。