出産
【子供を産むにあたって】
まず、漠然と子供が欲しいというよりかは、1人目の子供を産むなら30歳までだと思っていた。
元々は28歳で産めるようにと考えていたのだが、私がリーダーをしている職場で私以外の全メンバーが退職なり産休なりで交代になるという大事件が起きてしまったため、現場の安定化の都合で一年後ろ倒しにすることにした。(一年の後ろ倒しで済んだのはひとえに現場のメンバーの尽力のおかげである。感謝感謝)
結果的には30歳の誕生日を迎える1ヶ月前に出産となり、無事に達成することができた。
【出産における選択肢】
現在は無痛分娩という選択肢があるが、自然分娩の実績を解除したかったため、無痛分娩の選択肢自体持つこともなかった。
出産後振り返って、無痛分娩にすればよかった、とも今のところ思ってはいない。
【出産への心持ち】
どれだけ怖がっても訪れるとわかっているものに対しては心を動かさないように日々努めている。産みの苦しみから逃れることはできないため、出産に対しての不安や怖さみたいなものは余計な感情リソースの消費だと考えていた。理解しておくべきことを学習しておき、それ以上のことはやってみるしかないという意識である。
おかげで経産婦に間違えられることが非常に多かった。落ち着きすぎて、通っている整骨院の若い男の先生に毎回ドン引きされていた。
【立ち会い出産】
私が苦しんでいるのを見るのが難しいだろうと、旦那には立ち会いはしないでいいと伝えていた。旦那は血を見るのが苦手であり、なおかつ100キロを超えているため、万が一倒れると非常に迷惑がかかると感じての結論だった。
【出産体験レポ】
12/25が予定日であったが、12/24を迎えても全くそれっぽい陣痛が来なかった。
25日になって、軽い生理痛くらいの痛みが10分おきに来るようになり、そのまま入院となった。しかし本陣痛は始まらずむしろ引き始め、翌日にバルーンを入れてみることになった。
非常に豪華な病院食を食べつつ、年に一度のお楽しみであるSASUKEの放送を病室で見ていた。
翌日15時。バルーン挿入。(このときの内診が激痛だった…)
挿入直後から本陣痛が来始めた。
18時前にはかなり痛みが強まり、吐き気が出るように。まだ動けるうちに分娩台に移動しておこうということで、ナースコールの場所も教えられないままにとりあえず分娩台に横にさせられた。この時点での子宮口は2センチ。
19時
ここまで母が付き添ってくれていたが、朝方に出産になると感じた母は、年末のゴミ捨てを終わらせるべく一時帰宅。分娩室で1人で陣痛に耐えることになった。
夜間体制に切り替わったタイミングだったからか、看護師さんが全然来なかった(そういうものだったのかもしれないが)。周りを気にする余裕もない中、静かで広い分娩室に1人で置いてけぼりにされた。
分娩室は寒かった。痛みよりも寒さにこたえて、体が震え、呼吸も浅く、どんどん自分がパニックになっていくのがわかった。ナースコールの位置を教えられておらず、ナースコールを探す余裕もなく、痛みに叫んでも誰も来ない中で1時間半ほど耐えているとようやく母が戻ってきた。ここでようやく体に2枚タオルをかけてもらえたわけだが、この時点ですでに気がおかしくなりそうだった。メンタルは強い方だが、それは自分で周囲の環境を整えられるからであり、寒さにはめっぽう弱い。案外根を上げるのが早かった。
旦那には立ち会ってもらわなくていいと伝えていたが、すぐに呼んでもらった。とにかく寒くて気が狂いそうだった。血圧を定期的に測られてその度に問題がなかったことを考えると、アドレナリンが足りなくて寒気や震えが出ているという状況ではなさそうで、単純に寒さが問題だったのだと思う。
子宮口が開くまではひたすらに陣痛に耐えなければならない。深い呼吸を繰り返し、とにかく痛みの波をいなし続ける。痛みの波は数値でモニターに投影されているため、本人以外にも痛みの波がわかるようになっている。母が波に合わせて的確にツボに指圧をかけてくれたのが助かった。
陣痛開始から陣痛の感覚が5分間隔くらいになっていくと、呼吸をすることだけを考えるマシーンになろうという意識になってくる。「吸って!ふーーーーーーーー」という母の声かけを頼りに、催眠をかけられたかのように言葉にしたがう。抵抗することなくかけられた言葉通りに体を動かすという行為は催眠法そのものである。自分で考えず、かけられる言葉だけに従う状況の楽さを感じた。
22時頃
この時点でまだ子宮口は4センチ。このまま1時くらいまでは4センチから進まなかったと記憶している。
2時頃?
このあたりの記憶はほぼほぼ無いが、このあたりで子宮口が8センチくらい。
あまりの激痛に、まだ?まだ!??と口に出して周囲に訴えていたのを覚えている。
徐々にお尻に違和感を感じる。股に大きな何かが挟まっている感覚があった。
3時頃
子宮口が全開、本格的に分娩の準備に入る。
破水の後、呼吸を「ふーーーーーウン!!!」という吐ききった後に一瞬息を止めるようなものに変更するよう伝えられた。
このときの心境としては「こんなことして何になんねん早よ産ませんかい!!!」である。心の中ではブチギレていた。
面白いことに、ウン!をちゃんとしていると、体の中にゲージが溜まっていくのがわかった。ウン!ゲージが溜まっていくのは激痛なため、たびたびとんでもない叫び声を上げることになったが、叫ぶと力が逃げてしまい、赤ちゃんが降りてこないらしい。どうやら求められているのはゲージを溢れさせることらしかった。口閉じて!と指示され、激痛の中でゲージの爆発を迎えると、強烈な勢いで股から何かが押し出される感覚があった。
後から振り返るとそのように例えることができるが、そんなことを出産中は考える間もなく、今までの人生で出したことのないような叫び声を数回上げた後、無事に股からズルッと命が出てきたのだった。
12/27 3:46
本陣痛開始が15時、出産まで約13時間
【痛みへの耐性の強さ】
昔から、唐突に耳鼻科の先生に鼻の中を焼かれたり、歯医者の先生に歯茎を掘られたり、生理痛は吐くほどの痛みを感じるタイプだったりと、大変不本意ながら理不尽さへの耐性を鍛える機会に恵まれていた(キレそう)。おかげさまで大抵のことには動じず、痛みに強い自負はあった。
それを踏まえても、出産の痛みというのはダントツで痛かった。痛みが辛いというよりかは、痛みがいつ終わるのかわからないことへの辛さが大きかった。生理痛は重くても1日でおさまる、あるいは薬で痛さを和らげることができる。しかし、陣痛は赤ちゃんの気まぐれである。何時間続くのか、どれだけ耐えればいいのかわからないという点が何より辛かった。
もし分娩室が寒くなければもっと楽だったとは思うのだが、まだ一度しか経験していないためなんともである。
母の指圧がなければ気が狂っていたと思う。
【振り返って】
結果的に旦那が21時から朝の4時までしっかり付き添ってくれた。苦しむ人間を仕事終わりに徹夜で見続けるのも相当辛いことだったと思うが、やりきってくれて本当に感謝しかない。常に指圧をし続けてくれた母の指は爪が凹んでいた。
旦那本人も立ち会って良かったと言っており、普段は競馬のことばかり話してきていたのに、出産を終えてからは毎日動画の催促が来る始末である。我が子を可愛いと思えるか不安だったようだが、どうやら可愛くて仕方がないようである。安心安心。
(赤ちゃんのための買い物もほとんど手伝ってくれなかったが、出産後に「これどう?」と連絡をするようになってきた。出産前に付き合ってくれ)
ありがたいことに、今のところ母子健康、母の体も全く問題がなさそうである。
自分のための人生はひとまず中断、しばらくは子供のための人生を歩もうと思います。
追記
年末のG1の3連戦は家族で視聴、無事有馬記念と東京大賞典で3連複を的中させた旦那は、ひたすら赤ちゃん用品を買おうとしていましたとさ
祖父のこと
先日、旦那の祖母が亡くなった。週末の土曜日の昼過ぎ、奈良の大神神社へのお参りを済ませた頃だった。その日は旦那が仕事の疲れで珍しく運転するのも辛そうだったため、私が運転をしていた。次の日から2日間、急遽旦那の実家のある姫路へ行くこととなった。
三連休であったため仕事の都合を付ける必要はなかったが、ちょうど姫路マラソンの日と被っており、少し値の張るビジネスホテルのシングルルームを2つ予約することとなった。
もともと年末に数回目の誤嚥性肺炎を起こして入院したと聞いていたため、近々そうなるのではという心構えはあった。寿命を全うされたのだなと思いつつ、姫路へ向かう道中の車の中、私は自分の祖父のことを思い出していた。
私の祖父母は皆80歳を超えているが、母方の祖父以外は存命である。祖父が亡くなったのは何年前だったか覚えていない。高校生か、大学生の頃だったと思う。
亡くなる1年半前、祖父の家に行った際、突然「これいるか?」といくつかの料理本を見せられた。祖父からは今まで一度も本をもらったことがなかったため驚いたが、不要だったため断った。それが自身の死期を悟り、誰にも言わずに身辺整理をしていたのだと気がついたのは、それから2ヶ月後に末期の膵臓がんであると正式に通告されてからのことだった。
祖父は私にとってはいわゆる「スーパーおじいちゃん」だった。家で陶芸をさせてくれたり、凧を作ったり、爪楊枝と割り箸を材料にミニチュアの家を作ったり、船釣りで100匹以上の鯵を釣ってきたり。3メートル以上の長さの網を器用に操り、ギンヤンマを捕まえてくれたこともある。友人も多く、友達の画家のアトリエに私を連れて行ってくれたこともあれば、いちじく畑を所有する友人の家に行って、いちじく狩りをさせてくれたこともある。中学の頃、私の陸上の試合にママチャリで1時間かけて見に来てくれたときはさすがにドン引きした。
筋金入りの釣り人なので、釣るのが難しいと言われる本カワハギを数十匹釣ってきては、刺し身と煮付けを作ってくれた。高級食材だと知らなかった私はおいしいおいしいとひたすらに食べていたが、自分で海鮮にお金を払うようになってからはなんと恐ろしい子供だったのかと反省した。今での一番好きな海鮮は何かと聞かれたら、本カワハギの肝醤油と答えるだろう。本当に旨いのである。
このように祖父に与えてもらった経験は数えるとキリがない。どれも強く印象に残っているものばかりである。自分では祖父の真似をしたつもりはまったくなかったが、私がコーヒー片手にピーナッツをつまみながら新聞を読んでいるのを見た母親が祖父そっくりだと吹き出していた。私がまだ小学5年生頃の話である。
姫路に到着すると、同じホテルを予約してすでにチェックインしていた義弟夫婦と合流した。義弟夫婦は東京から新幹線で来たという。2人を車に乗せてメモリアルホールにむかった。
到着すると、義理の両親と義父の弟さんが出迎えてくれた。花に囲まれた遺影と棺が置かれたホールと、親族が故人と過ごせるスペースが併設されている建物で、それぞれは引き戸で分けられるようになっていた。こたつに入りながら故人の写真を眺められるようになっており、葬儀も移動せずその場でできるようになっていた。
亡くなられた旦那の祖母はきれいに死化粧をしてもらっており、手を組んだ形で棺におさめられていた。
義弟の奥さんと会話をしつつ、お坊さんが来るのを待った。葬儀が始まってからは、よく響く深い声で挙げられるお経に聞き入っていた。静かに祈る時間は好きだ。お経や祝詞を聞くのは苦ではない。学生の頃はよく神社でゆっくり手を合わせていたものだが、社会人になってからはほとんどそういったことをしていないことに気がついた。情報過多な時代で、ただ祈る時間というのは貴重だろう。
最後にお弁当を食べて解散となった。義弟夫婦と連絡先を交換し、次の日の朝に一緒に何か食べないかという話になった。旦那は疲れ果てていたのでたぶん起きてこないだろうと予想し、私と義弟夫婦でモーニングを食べるつもりで床についた。
翌日8時に起きて身支度をしていると、出発予定の9時に義弟から寝坊を知らせるチャットが届いた。遠くから来てお疲れだろうと思い、11時に改めて昼ご飯の約束をし、一人でホテルを出た。
部屋から見えた空は曇っていたが、外に出ると青空が広がっていた。絶好のお散歩日和である。
姫路はアーモンドトーストなるものが有名らしい。初めて聞いた食べ物だが、姫路駅周辺のモーニングを提供している喫茶店なら大体どこでもあるようだ。
義弟からは「はまもとコーヒー」というカフェを勧められたため、ひとまずそこに向かってみることにした。
姫路駅の南側から北側に出ると、正面に白い姫路城を臨むことができる。大手前通りと名のつくメインストリートは、昨日行われていた姫路マラソンの装飾を残していた。
しばらくメインストリートを歩いて東側に足を進めると、メインストリートとそうようにして2つの商店街が連なっている。関西には難波から本町にかけての心斎橋商店街、京都の寺町・新京極商店街、奈良の東向商店街などがあるが、どれも観光客ばかりで時折嫌になる。それらと比べて姫路の商店街は比較的落ち着いており、地元の住民であろう人々が歩いている。
朝の9時半はさすがに早すぎるのか、人もまばらで開店している店も少なかった。そんな中、行列を見つけたのがまさかの「はまもとコーヒー」だった。まさかここまで人気だとは思わなかった。10人ほど並んでいたため、諦めて他の店を探すことにした。
しかし、祝日である。サラリーマン向けの喫茶店は定休日であることが多く、なんとか見つけたところは喫煙可能な昔ながらの喫茶店だった。昔ながらのと言っても、ザ・喫茶店というような暖色系の明かりで暗めの店内、マスターがコーヒーを入れるといったような重厚なイメージではない。白い壁、簡素な机が数個並んで、いくつか人の高さほどの観葉植物があるいたってシンプルな地元の喫茶店である。店内はほぼ満席で、あまり雰囲気にあっていない観光客と見られるおしゃれな女の子の2人組は、おそらく私と同じカフェ難民であろう。それ以外は常連っぽいおじさんかおばあちゃんといった客入りである。
480円のモーニングセットを注文した。トーストの種類を複数選ぶことができ、もちろんアーモンドトーストを選択した。本当はこだわったコーヒーを飲みたかったのだが仕方がない。しばらくして、1杯のコーヒーとサラダとゆで卵、アーモンドトーストが運ばれてきた。コーヒーも雑味がなくて悪くなく、なるほどこれで480円はお値打ちである。
アーモンドトーストはいわゆるピーナッツバターのようなものかと思っていたのだが、刻んだアーモンドと砂糖、バターを混ぜたものをパンに塗っているようだった。刻んだアーモンドの食感とその香りがバターと相まって、あっさりめのコーヒーとよく合う。
大変満足してホテルへ戻った。ただし礼服はタバコの臭いがついてしまったので、ホテルの部屋にあった消臭スプレーを拝借した。良いビジネスホテルなだけあってアメニティが優秀だった。(なんとシャンプーとリンスが真珠のミキモトのコスメブランドのものでその質の高さに感動した。)
そのあとは義弟夫婦と旦那とで「葡萄屋」というカフェへ車で向かった。歴史ある有名なカフェのようだが、セルフオーダーシステムで、配膳ロボットが品物を届けてくれるスタイルだ。驚きなのはそれだけでなく、なんとレディースランチとして出てくるランチセットが男子学生が食べる量である。アーモンドトーストのみ先に配膳され、その後フライドポテト、ハンバーグ、エビフライがプレートに乗せられて出てくる。どちらかというと「大人のお子様ランチ」と表現したほうが的確である。私はモーニングを食べたあとだったため、小さいグラタンを頼んだ。
昼食後はメモリアルホールに戻り、葬儀が行われた。棺に花やお菓子を入れ、棺を霊柩車に運んでいく。旦那が泣いていた。普段は天邪鬼な旦那は、家族のことになるとこのようにまっすぐな感情が出る。
姫路には大きな霊園があり、火葬場も霊園のある丘の上にあるため、そこまで車で向かった。
人が骨になる、確かに動いて息をしていた人間が灰になるのは不思議なものだと感じる。火葬場は非常に大きく、遺体を焼くために棺を収めるスペースは10個ほどあった。それぞれの場所には故人の名前が記載されており、毎日これだけの人数の人が、一つの街で当たり前に消えていくことに驚いた。
祖父の遺体にさよならを言うとき、他の孫たちが涙を流す中、私だけは泣かずに「私はもう大丈夫」と伝えた。ここまで書いて、祖父が亡くなったのが大学2回生の頃だったことを思い出した。
中学1年生から大学1回生まで、希死念慮と戦ってきた。戦ってきたという表現は適切ではないかもしれない。寄り添って生きてきた、と言ったほうが自然だ。
もともと笑顔がトレードマークだった私が中学に入り、人の顔も見れない、自分の言葉で話すことすらできない状態になっていたとき、明確な言葉にして「大丈夫か」と声をかけてくれたのは祖父だけだった。私はそのときは何も言えなかったが、以前とは異なる自分の姿を言葉にして気にしてくれたのは家族では祖父だけだった。すごく嬉しかったことを覚えている。
祖父が亡くなる2週間前、入院先の病室で祖父に会った。
そのときはもう会話もできない状態で、確かに目では私を捉えているものの、体は硬直し、言葉にならないうめき声が漏れ出ただけだった。「自分ではしゃべってるつもりやねん」と母は言った。私が憧れたスーパーおじいちゃんの祖父はいなくなってしまった。
祖父が亡くなり、私の姉が横で死化粧を手伝っているとき、私は悲しみよりも目の前のやせ細った遺体が祖父のものであることを信じられないでいた。私の記憶の中の祖父は力強く、何でもできて、頭のいいスーパーおじいちゃんだったから。
だから、肉がなくなり、骨になった祖父を見て初めて、それが私の記憶の中の祖父だったのだと認識することができた。
高齢で、1年半闘病していたにもかかわらず、祖父の骨は灰となって崩れることなく、力強くしっかりと形を残していた。最後に父が棺に入れた昔ながらの釣り竿をしっかりと握って、祖父はしっかりとした足取りで天に向かったのだと思った。
旦那の従兄弟と義弟の奥さんと会話しながら火葬が終わるのを待ち、みんなで骨壺におさめて、義弟夫婦と義両親とで晩御飯を食べた。かもめ屋というステーキとエビの鉄板焼のお店である。
夜の高速道路で大阪に変える道中、老人ホームを探す仕事をしている旦那が「やっぱりすごい大事な仕事やってるんやなって思った」と呟いた。死に近く、死に向かっていく人とその家族を相手にする仕事をしている旦那を私はとても尊敬している。
祖父が亡くなったちょうど1年経った頃、帰省中に祖父が夢に現れた。
向こう側から祖父が誰か知らないおじさんと2人で歩いてきて、「これからうまいもん食いに行くんや」と祖父は笑って去っていった。
翌朝母にこのことを伝えると、「一緒にいたのはメガネかけた人やった?」と聞かれたので、たぶんそうと答えると、母は泣きそうになりながら「そっか、美味しいもの食べられてたらいいなあ」と言った。
社会人になってから釣りに興味を持ち、祖父が生きていたらなあと考えることが多くなった。
でも大腸の手術をして退院した翌日に朝3時から船釣りに行くほどの釣り人についていける自信はないなあ、と祖父を思い出すたびに笑っている。
祖父のことを文章にしたいとずっと考えていたが、ようやく文字に起こせてよかった。
PUNKSPRING2023
それまでシンガーソングライターとかユニットとか、そういった枠組みを考えたことがなかった私が、初めて「バンド」を意識して好きになったアーティストである。マイケミがいなかったらバンドというものにハマっていなかったかもしれないし、実際にバンドをしていなかったかもしれない。
小学校3年生くらいのとき、FM802でよく流れていたのがマイケミの"Welcome to the Black Parade"だった。
その際は好きな曲の1つ、という認識だったが、中学生になり"Black Parade"のアルバムを聞くようになってから、どハマリするようになる。youtubeで何度も何度も"Welcome To The Black Parade"や"Helena"や"Famous Last Word"をリピートし、他に同じようなバンドがないか探しては落胆し、そのゴシック感とボーカルのジェラルドの泣き出しそうな声の唯一無二性にとりこになった。当時死に近い生活を送っていた私にとって、彼らは私のヒーローに他ならなかった。「大学に入ったら絶対お金をためて、アメリカまでライブを見に行くのだ」と決めていた。
マイケミが活動を休止したのは、私が大学に入る直前の、高校3年生のときだった。
大学に入ってマイケミのコピーバンドをしたり、マイケミが好きな友人もできたが、人生における夢の1つが失われ、大きな悔いとなって心の中に残っていた。
それが、である。
大学卒業後2年目に再結成、来日公演の決定、そこからコロナ禍での延期、またそこから2年後の2023年3月26日。PUNKSPRING2023。
ついに私は夢を叶えることができたのだ。
前置きが非常に長くなったが、これはPUNKSPRING2023のレポートである。
マイケミだけでなく、Simple plan、Bad Religionのレポも含まれる。
日本のバンドも出ていたが、最後まで体力をもたせられる自信がなかったため、SimplePlanからの参戦とした。
会場につくと、海外からのお客さんが多いことに驚いた。少なく見積もっても3割はいる。
しかも、赤髪で全身真っ黒のエモガールがたくさんいた!バンドのボーカルか、海外のフェスの映像でしか見たことのない、古のエモガールである。マイケミ関係でいろんなエモバンドを聞いていた私としては、そこに興奮せずにはいられなかった。残念ながら前髪を流した目隠れエモボーイは絶滅してしまっていたが、黒革ジャンの正装に身を包んだ人は数え切れないほどいた。みんなだいたい30代前後に見え、同世代である。英語圏だけでなく、韓国・ベトナム・その他の東南アジア系の人々が多く来場し、同じくらいの年の人間が、マイケミを見るために世界中から集まっていた。
すでに感無量である。この日を待っていたのは私だけではなかったのだ。
日本勢最後のフォーリミが出番を終えると、仕切り直しといった形で802のDJのMCが始まった。
Simple Planを見るために、自分が割り当てられたブロックに向かった。私のブロックはB3で、前から2番目で真ん中のブロックだった。これならよく見える、と思ったが、前で座っていた観客が立った瞬間ステージの上が見えなくなった。
日本人の平均身長より随分と高い……。
なぜかB3ブロックは半分が外国人だった。日本語よりも別の言語のほうが聞こえる。
身長については仕方がない、音が聞ければ十分かなーと思っていたときだった。
"Do you have the time to listen to me whine
About NOTHING and EVERYTHING all at once"
突然場内にGREEN DAYのBasket Caseが流れ始めた。
瞬間、大歓声からの大合唱である。
ポップ・パンクの代表曲、パンクをメジャーにさせた筆頭。もちろん私も歌える。
一瞬で場内がパンクキッズで溢れかえった。
続いて、
・THE OFFSPRING "The Kids Aren't Alright"
・Panic At The Disco "I Wrote Sins Not Tragedies"
・Fall Out Boy "Sugar,We're Goin Down"
こんなものを聞かされて正気でいられるパンクキッズはいない。
気がついたら360度外国人の中で、一緒に英語でシンガロングしていた。
(周囲はネイティブだったので、なんちゃって英語ではないちゃんとした歌詞を歌っていて感動した)
GREEN DAY以外の3曲だが、この曲たちは私が中学校のときに読んだ「マイケミ好きにおすすめするバンド」の記事で紹介されていた記事のラインナップそのままだった。残念ながら当時の自分が求めていたようなものではなかったのだが、確かに当時聞いていたのだ。
FOBなんかは後々ドハマりしてコピーもしている。間違いなく名曲ぞろいである。
マイケミが始まる前から感動することが多すぎて、この時点ですでに泣きそうだった。
○Simple Plan
Simple Planは特別好きだというバンドではない。しかし、パンク・エモを嗜んでいる人間であればどこかで必ず聞くことになるバンドである。嗜んでいなくても、この曲どこかで聞いたことある〜となるのがSimple Planである。
覚えている限りのセトリが↓
Shut up
Jump
Jet Lag
Welcome to my life
Summer Paradise
Sk8ter boy(アヴリルラヴィーンのカバー)
最後の2曲↓
I'm just a Kid
Perfect
ただ最高の一言だった。これぞポップ・パンク。キャッチーで乗りやすい。
最後の2曲連続でくるのは涙腺に優しくなかった。ひたすらに楽しかった。
アヴリル以外にもカバーをしていた曲があったと思うのだが、ちょっとわからなかったので割愛する。
MCで「Japanese Jokeをするぜ」と言ってからの「こーーんにーーちはーー!!」は落差が激しすぎてついていけなくて申し訳なかった。Simple Planと錦鯉が同じ世界線に存在することをなかなか認識できなくて……。
○Bad Religion
大御所バンド。お恥ずかしながら、名前こそ聞いたことがあるがほとんど知らないバンドだったため、ライブ直前になって調べた。
なんとEpitaph Recordsの設立者だった。
お世話になりすぎていて頭が上がらない。OFFSPRING,NOFX,New Found Glory,Saosin,BMTH,Sleeping With Sirens,挙げ始めるときりがない。我々のようなパンク・エモ・ポストハードコア大好き人間はEpitaph Records,Rise Records,Fearless Recordsには足を向けて眠れないのだ。感謝してもしきれないほどの恩がある。
実際に生で聞いてみて、メロディアスなメロディラインに、私の好きなバンドに通ずるハードロック・パンク・ハードコア要素が感じられて、大変価値のあるライブだった。もう1980年から活動しているバンドのため、皆ほぼおじいちゃんだが、最高にクールだった。
そしてマイケミである。
○MY CHEMICAL ROMANCE
転換が終わり、そろそろ始まるのではないかという雰囲気になった瞬間、隣にいた眉毛のないアジア系の女の子が泣き崩れた。
気持ちが溢れてしまった女の子を周囲の人間で慰め、「俺もこの日を待ってたんだよ、bro」と周囲の観客がそれぞれにグータッチをしあっているのを横で見ていて私も泣きそうになった。
メンバーが登場し、ついにフロントマンが現れた。
メンバーは驚くほど老けておらず、再結成時には長年の憧れが吹っ飛ぶくらいの中年太りをしていたジェラルドは、かつてに近い痩せた姿で現れた。
女性用のスカートスーツを着て、右顔面には爪痕のようなペイントを施し、ゾンビのような真っ白いカラーコンタクトをつけて、ステージ横の巨大なスクリーンにその姿が映し出された。
1曲目は再結成してからリリースされた"The Foundations Decay"。
興奮のために後ろから人が殺到し、押しつぶされそうになりながら、必死に背伸びをしてステージを見ようとした。
周囲のシンガロングの声が大きすぎて歌があまり聞こえず、どうしたものかと困っていると、斜め前にいた肌の白い海外から来たであろう女の人が場所を入れ替えてくれた。
そこでようやく前が開け、演奏を鮮明に聞くことができた。
初めて聞く生のジェラルドの声は、ずっと聞いていた憧れのヒーローの声そのものであった。
"Na Na Na","Thank you for the Venom","Boy Devision"と続き、
"I'm Not Okay"のイントロが流れた瞬間、こらえきれずに泣いてしまった。
コピーもした、Black paradeの次に好きな曲である。
ドラマティックな曲展開が大好きで、ラスサビの前の"Trust me"でもう一度泣いてしまった。
そこから数曲続き、数百回数千回と聞いたピアノのイントロが聞こえた。
その瞬間、死にたいと思っていたこととか、死のうと思ったタイミングのこととか、立ち直って人の愛を受け止められるようになったこととか、なんだかもういろんなものが報われた気がして、あふれる涙をこらえることができなかった。
"When I was a young boy.My father took me into the city to see a marching band"
周囲をちらっと見渡すとみんな泣いていた。
マーチングのドラムに合わせて、まずは一周一緒に歌い、ギターのリフが始まると、再度自分の心が揺さぶられるのを感じた。
静かなピアノ→マーチングのドラムに合わせる歌→泣きのギター→同じ歌詞で2周目をシンガロング→マーチングの終わりからテンポアップ→Aメロと繋がり、観客のテンションも最高潮で、シンガロングパートではない部分までずっと歌っていた。
それでもちゃんと私の耳にジェラルドの声は届いていて、憧れのボーカルとマイケミの演奏で歌えていることへの喜びでどうにかなりそうだった。
"I’m just a man, I’m not a hero
Just a boy, who had to sing this song
I’m just a man, I’m not a hero
I don’t care"
この曲で一番好きな1節である。
この1節を、1000人規模の人数で集まって歌えたことで、くすぶっていた自分の中の悔いが成仏したのを感じた。
死ぬことばかり考えていた自分が、ここまで生き続け、自分を支えてきた曲の一部となり誰かの思い出の1つになれたこと。こんなに嬉しいことはなかった。
この後も好きな曲が続いたのだが、もう最高以外の語彙が出てこないので、セットリストだけ記載してほかは割愛することにする。
The Foundation Of Decay
Na Na Na
Thank You For The Venom
Boy Division
I'm Not Okay(I Promise)
The Ghost of You
Bury Me In The Black
It's Not a Fasion Statement,it's a Deathwish
You Know What They Do To Guys Like Us In Prison
Welcome To The Black Parade
This Is How I Disappear
Everyone Hates The Eagles
The World Is Ugly
Give 'Em Hell,Kid
Teenagers
Mama
Helena
Famous Last Words
Sleep
Vampires Will Never Hurt You
最後までジェラルドはメッセージっぽい言葉を発することなく、終始「おえええええ」という本気で吐くような声だけ出していて、観客が戸惑っていた。
マイケミは日本が大好きだそうなのだが、ちゃんと日本を楽しんで帰れただろうか。
終演後、席をゆずってくれたお姉さんにもう一度お礼を言おうと思ったが、すでに姿はなかった。
婚姻届を出す2日前にこのライブが行われたことが、自分にとって大きな意味があるものだったように思う。
心の引っかかり、諦めていた1つの夢を果たすことができた。新しい人生のスタートを気持ちよく切れたと思う。
"Black Parade"のアルバムは、死をテーマに ”生きる意味” を描いたコンセプトアルバムである。
"Black Parade"を聞いて、死を四六時中意識していた自分が、今では生きることを意識しないほど生を楽しんでいる。とんでもない成長に笑ってしまう。
この日のことは誰かの記憶に残り続けるだろうし、私もこの日の思い出を胸に生き続けていくだろう。
死ぬ間際に今日のことを思い出すかはわからないが、お迎えの音楽はどうかBlack Paradeであってほしい。
ありがとうMY CHEMICAL ROMANCE。
近況:性について
最近はよくコテンラジオというポッドキャストを聞いている。
歴史について語るラジオなのだが、これがなかなかすごい。
語るのは専門家ではない一般人数人であり、この数人でテーマについて参考文献を数十冊読んだ上でラジオをするというものである。実際に読んだ参考文献をページでまとめてくれているのがありがたい。
参考文献リスト:https://www.valuebooks.jp/shelf-items/list/aWZpYU96cURDSkh6TE1IeDl4WldiUT09
語り調も「この本では〜と言っている」「この人は〜と言っている」とか、あくまで引用であるという
ところも配慮がされている。
性の歴史について語っているのを聞いているのだが、かなり長くてまだ最後まで聞けていない。
非常におすすめなので、気になる方は聞いてみてほしい。Spotify,Apple podcast,youtubeで視聴可能だ。どこのエピソードから聞いても面白いと思う。気になるところから聞くのもありだ。
#210 [PG-18] 性の歴史 ー人類が紡いだ愛とセックスの物語ー【COTEN RADIO】 - 歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO) | Podcast on Spotify
少し前に、巨乳というものをエロく感じるのは人間の本能的なものなのか、それとも「巨乳=エロい」という社会通念を学習してエロいと感じるのか、どっちなのかと気になって周囲に聞いて変な顔をされたことがある。
まあおそらくはどちらもあるのだと思う。人による、が正解だと思う。
しかし不思議なのである。私自身普段から何かに対してエロいという感覚を持つことがないため特にそう感じるのかもしれない。
コテンラジオでも話されていたのだが、今現在の社会一般的な性的な感覚というのは、明治以降に明治維新の中で諸外国と同等と渡り合うためにキリスト教的価値観を日本に浸透させた結果生まれたものである。野蛮と思われないようにするため、とも言えるだろう。
そもそも日本の着物という文化において、胸はよく見えるものであるし(ジブリ作品を見るとよくわかる)、混浴の文化もあった中で、本当に胸というものが性的欲求をくすぐるエロいものと捉えられていたのだろうか、という疑問がある。
私の性的感覚に対する疑問の根底にあるのは、昔twitterで見たとある人物の話である。
その方は、性的なものに対して母親から強い抑圧をされて育てられ、その結果一般的に性的とよばれるものを見ると吐き気を催すようになったらしい。そして虫の交尾にしか性的興奮を感じなくなってしまい、普通とは違う自分の感覚に今も苦しんでいるとのことである。
一般的な性的感覚を持てないというのは大きな苦しみであるというふうに思う。誰もが例外なく感じるとされている性欲というものについて、誰ともわかりあえないのだ。
生理的な反応に対しては人は無力である。自分ではどうすることもできない。
似たような話は、ジャンプ+で掲載されていたROUTE ENDという漫画でも描かれている。
特殊清掃の現場でしか性的興奮を得られない心に傷を負った男とその彼女が描かれており、
見ていて非常に辛いものがある。1ページ目から自殺描写があるため苦手な方は読まないでほしい。
人の傷つきを強く感じられるミステリー作品である。
[1話]ROUTE END - 中川海二 | 少年ジャンプ+
エロさの共通認識というのは結構大事で、それによって生まれるコミュニケーションや関係性もあるだろう。
その共通認識を得られない、感じられないことはかなりの疎外感を生むと考えられる。特に男性では。
コテンラジオを聞いて性の歴史を知る中で、やはり性的な感覚というのは本能で決まっているものではなく経験(特にキリスト教的価値観)によって作られたものであるというふうに感じる。
歴史の勉強をしていると、やっぱキリスト教がだめなんじゃねえかという気持ちになるのでそこはバランスをとらなきゃいけない。とにかく侵略、価値観の押しつけの歴史なので……。
でも歴史を知ることによって、性的な価値観というのはその連続性の中で生まれているものにすぎない、という事実は少なくない誰かにとって、希望になるものなのではないだろうか。
理由なく決まっているものではない、はずだ。そう思いたい。
最近はそんなことばかり考えている。
男女の認識の差
私は現在異性と同棲をしている。自分の家庭が男1女3の家族構成であったこともあり、男女の物事への認識の差に日々驚かされている。
大学のサークル内でも同じような驚きを感じたことがあったことを思い出し、非常に面白い気づきだと思ったため今回書いてみようと思った。以下は4つの例である。不思議なことにすべて下の話である。少しでも苦手な人は見ないことを推奨する。
先に伝えておくが、どちらの認識が間違っているとか、悪いとか、そういったことを論じるつもりは全くない。物事のとらえ方は自分の生きてきた経験から育まれるものであり、そこに優劣をつけることはその人の人生を否定することにつながるからである。
フラットに、純粋な疑問をもって読んでほしい。
①トイレの大小
周囲の男の人いわく、トイレに向かうとき、今から出すのが尿なのか便なのか、明確に意識するものらしい。
そりゃあ男性は便器自体が分かれているので意識せざるをえないのだと思う。
女性の私としては、便意をもよおしたときは間違いなく便だとわかるのだが、たいていの場合は尿意を感じてトイレに行った後、ついでに出そうなら便も出す、ということがほとんどである。
小さいころに初めて男の人の小便器を見たとき、「おしっこしてるときにうんちしたくなったらどうするんだろう……」と本当に真剣に考えていた。ちなみにこれは今でも考えている。自分で考えても永遠に答えが出るはずがないのだが。
もしかして男の子のほうが幼少期に「うんこ」という言葉を使うことが多いのは、トイレトレーニングで親が大なのか小なのか聞いているからなのか?聞かざるをえない言葉なのであれば、その言葉は親にかまってもらえるワードとしてインプットされているのではないか?女の子は便器をわけないからそもそも聞く必要ないもんな……
我が家は姉妹のため母親に確認ができない。機会があれば伯母さんにでも聞いてみることとする。
②枕元のティッシュ
これは男女の差というよりかは、完全に生育環境と摂取している創作物の差に表れるのではないかと思う。
大学のとき、「布団に入りながら漫画を読んでいて、枕もとにティッシュが並んだ」という話題を同じサークルの男性の友人にしたところ、「エロいな」と返されたことがあり、大変なカルチャーショックを受けたことがある。
小さなころから鼻炎持ちだった私は、いつも鼻水をかんだティッシュが枕元に並んでおり、私にとって「枕元のティッシュ」というのは、鼻水を嚙んだものか涙を拭いたものの意味であった。
しかしながら男性の友人からすると、「枕元のティッシュ」というのはマスターベーションを想起させるものであったらしい。
確かにそう考えられてもおかしくないのである。創作物の中でそういった描写は何度か目にしたことがあるし、
逆に私のイメージは鼻炎持ちにしか伝わらないものである。おそらく私の方が少数派なのではないかということに気づき、この差は大変面白いぞと思った。
③敷布団についた血
これも②とよく似ているのだが、少しニュアンスは異なる。
サークルで合宿に行ったとき、男性の先輩と部屋で話していた時に敷布団についていた血に同級生が気付いた。
(私が所属していたサークルは24時間練習、練習の隙間に寝るというものだったので常時布団は敷いたままである)
血がついてるーと反応した同級生に対し、男性の先輩は
「まあ誰かが激しくしたんやろ」と返答しており、当時1回生だった私は大変な衝撃を受けた。
女性ならわかると思うが、「敷布団に血が付く」というのはかなりの確率で経血を意味している。
もしくは誰かの鼻血である。
確かに男性の口から「経血でしょ」なんて言葉を耳にする方が不快に感じる女性は多いのかもしれないし、そう思ってとっさに出た答えがあのようなものだったのかもしれない。
ただ私だったら、「鼻血かなー」と軽く答えていたとは思う。
④性器の大きさについて
最近不思議だなーと思ったことの第一位である。
男女にはそれぞれ性器・生殖器というものがついていることが多いわけだが、なぜだかその大きさを競うという文化が男性にはあるらしい。女性の胸については、女性自身も気にする人もいるが、特に男性側に気にする人が多いように思う。
女性としては、大きすぎると下着や服を探すのが大変で高価になってしまったり、肩が凝ったり、勝手にエロい人間だと思われたりして不快・不便なことの方がよっぽど多いように思うわけだが……。
強調しておくが、すべての人間がここにあてはまるというわけではない。
(個人的には自分でどうにかできるものではないものを競ってもどうにもならないと思っているので、性器の大きさについては自分にも男性側にも興味がない)
非常に不思議だと思ったのは、「男性の性器が大きいほど男性の能力が高い、女にモテる」という考えが一定の男性に存在することである。
モテる男の人を見て、「まああいつチンチンでかそうやもんな」と話す男性の先輩を見たことがあり、はて?と首をかしげることがあった。この認識は一体どこから来ているのだろうか。
好みのタイプで男性側が「胸の大きな人」と答えることがあっても、女性側が「チンチンの大きな人」と答えているのは見たことがない。いやいやいや直接的にそんなこと答えるわけないじゃん、と思われると思うが。いや本当にそうなのか?
いったん女性側が考えるタイプの話はおいておいて、問題は「女性側がそんなことを言っていないのに、なぜか一部の男性の中では『性器が大きい=モテる』という法的式ができあがっている」という点である。これは非常に興味深い命題である。
「大きい=気持ちよくさせることができる」という認識が一定層にありそうなのだが、「気持ちの良いセックスの方法」について調べてみても、どこにも物体的なことは書いておらず、手順や精神的に満たすための方法ばかり書いているかと思う。
実際のところ、大きすぎると女性側は苦しい。
これはAVや青年誌などの影響なのだろうか?それとも征服欲や受け入れてほしいという欲求なのだろうか?
それとも、女性に対して胸が大きい方が魅力があると思っているから、それと同じようなものとして性器の大きさを誇るのだろうか。
強調しておくが、これは男性への批判ではない。純粋な疑問である。良し悪しを論じるつもりは全くない。
このへんに関して関連書籍を知っている方がいれば教えてください。
①~④について語ってみたが、一人で考えるには限界である。
多くの女性・男性陣と会話しなければ見えてこなさそうだ。女性側はいいとして、こんな話に付き合ってくれる男性の友人は果たしているのか疑問である。
ARASHI 5×20FILM
11月21日。ARASHI 5×20FILMを見に行った。
嵐という存在について、書こうと思い、何度も文章を書いてみたのだが全然まとまらず、どうしたものかと考えていた。
自分にとって一番のアイドルであり、恩人であり、私が死なずにいられた道しるべである。アイドルという存在がどれほどのものなのか、知らしめてくれたアーティストでもある。
感謝の気持ちが大きすぎて、まとめようにもまとめられない。
追いかけていたのは中2から高校2年生くらいまでのためそこまで長いファン歴とは言えないが、今でも自分にとって確かに大きな存在なのである。
だから、活動休止のお知らせを聞いたときは茫然としたのだった。
そんな嵐の20周年記念ライブが映画館で放映された。Directed by 松本潤という箔付きで。
以下は映像を見た感想となる。もしネタバレが嫌だという方は見ない方がよい。
(すでにDVDで販売されているものなので、ファンはすでに内容をご存じだと思うが)
まあ内容を知ったところで何ら問題はない。文章を読むだけでは塵ほどにも映像の良さに及ばない。
さすが嵐、さすが演出家松本潤と言う他ない。
ドルビーシネマという音響が360度から聞こえてくる映画館で鑑賞したのだが、これがすごかった。ライブ会場に自分がいると錯覚してしまう。
自分も歓声に包まれている中で、ライブはスタートした。
以下、元嵐オタクの感情発露↓
松潤が手に持ったカメラの映像が会場のモニターに映し出され、嵐がみている風景が観客に共有されるところからライブがスタートした。
5人でいるというだけで感動してしまう。この時点で隣に座っていたお姉さんは泣いていた。
嵐ファンならわかると思うが、個人でメディア露出しているときと5人でいるときの表情は全く違うのである。
翔くんはキャスターや司会者のときのおりこうさんな表情ではなく、眉尻を下げて笑い、全力で飛び跳ね手を振りまくる。
ニノは毒舌なのは変わらないが、嵐の前でしか見られないかまってちゃんで末っ子らしい甘えん坊な一面を見せる。
松潤に関してはそもそも単体で見る機会の方が少ないため比較できないが、いじられた後の相葉ちゃんのツッコミがみられるのは嵐でいるときだけだし、
リーダーはとにかくふにゃふにゃする。
ここ1年ずっと見れていなかった表情が疑似ライブ会場で見られるのだ。この時点でオタクは泣く。
(この調子でいくとまとまらないので、印象に残った部分を記載していく)
今回の映像では相葉ちゃんの悪人顔が見れると噂を聞いていた。
I'll be thereの前だったと思うが、相葉ちゃんが影を操ってほかのメンバーを消していくという映像が流れる。
相葉ちゃんはそのキャラクターゆえに悪い役を演じることがない(過去にあったら申し訳ない)。
他のメンバーはダークな役柄を演じたことがあるため、悪い顔を見たことがあるが、相葉ちゃんだけは本当にない。
それが、モノクロの映像で、スーツで、わざとらしい表情でもなく、スタイル抜群の満点の仕草である。
これ見れただけでも3800円払う価値があるな…と嵐の中で一番最初に相葉ちゃんを好きになった私は序盤でしみじみと感じ入ってしまった。
周年の記念講演のため、アルバム曲やカップリング曲が少なく、ほとんどの曲が1番のみの演奏となっている中、
唐突に「果てない空」のサビをニノがソロで歌い始めた。
全く予想していなかった展開にびっくりしてしまって感情が追い付かず、打ち震えてしまった。
世間的にはあまり知られていないが、ニノは馬鹿みたいに歌が上手い。
リーダーは発声がきれいで全くぶれないうまさがあるのだが、ニノのうまさは感情表現である。
公式のジャにのちゃんねるで該当部分を見られるのでURLを貼っておく。(該当部分は6:18から)
一番好きな男性歌手はだれかと聞かれたら二宮和也と答えるかもしれないほど私はこの声が好きである。
本当に極まれに自分のラジオでほかのアーティストのカバーをすることがあり、頼むから事前告知、音源化してくれと思っている。
音源化は彼のスタンス的に絶対にしないと思われるのが悩ましい。嵐としてしかCDは出さないだろう……。
彼は本当に作曲センスも神なので作曲してくれると嬉しいのだが絶対にしないだろうな……。
果てない空の後に始まったのが櫻井翔によるピアノコンサートである。
5万2000人の前で10分以上ピアノを弾くのである。たまげてしまって、アオゾラペダルを演奏し終えた後の、安心したような恥ずかしいような
アイドルらしからぬ表情で「ありがとうございました」と言ったときには、「何年アイドルしてるんだよ……」と友人と突っ込んでしまった。
とても良かった。
個人的には一番テンションが上がったのは「Believe」である。
この曲の韻を踏みまくるラップパートが大好きなのだが、ラップパートに入る前の2番のサビ終わりでいったん客席とステージの間に
薄いカーテンが降りる。カメラのアングルは、カーテンで隠れたステージ側から客席の方向を映している。
「頭上に悠然とはためく~」の部分で櫻井翔がカーテンの間から大きく前に踏み出し、客席の前に現れる。
悠々と客席に向かっていく櫻井翔の後ろ姿と客席のライトをカメラがとらえ、嵐がみている風景を観客は体感する。
この部分に一番心が揺れた。
「Believe」のリリックについては、ラッパーの晋平太も「超HipHopじゃん」と自身のチャンネルで話しており、呂布カルマも櫻井翔のことを
「ラッパーとして仲間だと思っている」と生放送でコメントしているほど、ラッパーの中でも一定の評価を得ている。
私は嵐を好きになるまでラップが嫌いだった。当時メジャーだったラップがラブソングばっかりだったことが大きな理由だと思う。
そんな私の価値観を変えてくれたのが櫻井翔という存在である。
嵐には全編Rap詞の曲が数曲存在するが、櫻井翔のソロ曲であるHipPopBoogieが最もHipHop感が強い。
こちらは残念ながら公式の動画はないが、各サブスクで配信されているのでぜひ聞いてほしい。
アイドルでありラッパーであるという櫻井翔の在り方が強いメッセージ性をもって表現されている。
「温室の雑草がマイク持つRapSong」というリリックが最も象徴的である。
そのあと、松本潤がコンダクターとなりオーケストラを指揮する。嵐メドレーをオーケストラが演奏した後、そのままてっきり美しい曲が
始まるのかと思いきや、始まったのはバッチバチの全編Rap詞の「COOL&SOUL」であり、ここでも鳥肌が立ち私はぶったまげた。
まだまだ知名度が高くなかった時期、アジアツアーをやったときに引っ提げて出たHipなPopタイトルである。
ジャジーなとにかくおしゃれなサウンドに、ラストに向かってぶちあがっていく5人のラップは何度聞いても鳥肌ものである。
ちなみに私は何千回練習しても「嵐探し当たり騒がしいそのすさまじい騒ぎまさに嵐」の部分が言えない。
一番のパンチラインが言えない。悲しい。
同じ全編Rap詞の曲には「Re(mark)able」もあるのだが、イントロを聞くだけで「ギターの音作り~~~!!」とテンションがあがってしまう。
曲展開がすさまじい。サブスク配信されて本当にうれしい。
他にもあるのだが、とにかく嵐のラップ曲はすべてにおいてはずれがない。櫻井翔のリリックはサンプリング元があるものも
あるようなのだが、いかんせん私はほとんどHipHopに精通していないので全くわからない。何かわかるものがあればぜひとも教えていただきたい。
ちなみに「きっと大丈夫」という曲の作曲者はかのSOUL'D OUTのトラックマスターshinnosukeである。
櫻井翔のリリックについては語りだすと止まらないのでこのへんでやめておく。
この後からは怒涛のメドレー、終わりに向かっていく。ジャニーズJr.が過去の嵐のライブ衣装を着て一緒に踊っているのが感慨深かった。
映画の尺の都合でアンコールはカットされていた。ピカダブが聞けなかったことだけが心残りである……
エンドロールが「Love so sweet」と「Happiness」なのは本当に良かった、良かったという言葉以外に見つからない。
HappinessのMVなんて何回見たかわからない。嵐の良さが凝縮されているといっても過言ではないMVである。
とにかく仲のいい人間たちが楽しそうにしているという事実が、死にそうだった私の心を癒してくれたのである。
追いかけていなかった10年など気にすることなく、最後まで楽しむことができた。感謝の気持ちでいっぱいである。
アイドルでいてくれてありがとうという気持ちがあふれ出てきた。
活動休止後、心のおさまりが悪かったのだが、少し落ち着いた気がする。
とりあえず、見ていなかった2012年以降のDVDを購入することを検討しようと思った。
差別
差別というものについて、ここ最近ずっと考えている。
なぜ差別はあるのか、なぜ自分は差別について考えているのか、なぜ差別というものについて自分はここまで敏感なのか。そもそもなぜ差別はだめなのか。
私が特に問題視するのは、たとえば「障害者は生きている意味がない」と考えている人物がいたとして、その人物はもし自分が障害者になったら自殺するよと断言している。自分が誰かや国のお荷物になるくらいなら迷惑かけずに喜んで死にますよ、というような主張である。
そこには、自分の命はどうでもいいという一種の厭世感と、もしも自分がそうなったら自殺するんだからこういうことを言ってもいいでしょ、という考えがあるように感じる。障害を持つのは仕方がないことだと言っておきながら、自分が偶然そうではないことを棚に上げて、自分が相手を見下していることにも気がついていない。
見下せる立場にいるということ自体の加害性を全く理解していない。
差別という言葉を辞書で引いてみると、以下のように記載されている。
1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の差別を明らかにする」
2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって差別しない」「人種差別」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B7%AE%E5%88%A5_%28%E3%81%95%E3%81%B9%E3%81%A4%29/
多くの場合、2の「他よりも不当に低く取り扱うこと」の意味で用いられるかと思う。
この「不当に低く取り扱う」という部分の認識が個人によって大きく異なるため、非常に難しい問題となっていると思う。
差別についていろんな記事を見てみたが、納得の行く答えは見つからない。
これは倫理学が積み上げてきた命題の1つだと思うが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子供からの質問に知識人の大人たちが答えられなかったというテレビ番組での出来事があるように、説明しきることが困難な命題である。
個人的には、納得できる理由が人それぞれ大きく異なるため、真理として語るのが難しいと考えている。
多くの人間は人が不当に扱われていると感じると、その共感性から嫌悪感を覚えると思うが、共感ができない人、そもそも他人が不当に扱われることと自分自身を地続きに考えられない、
自分が不当に扱われる可能性を疑わない人間からすれば、周囲の言葉や積み上げた歴史は説得材料になりえない。
また、自分が長い間不当に扱われてきた経験から、そんなことは当たり前なのだから気にするほうがおかしい、諦めるしかないと主張する人間もいれば、なんで自分よりもあいつが良く扱われるのだと、同じく差別を受けている人間に対してその差別の程度の差異について憤る人間もいる。
私自身の考えを一旦まとめておきたい。
私の思う差別問題(被差別の苦しみ)とは、「個人として扱われない」ことだ。
何をしても親やステータスのせいにされる。それは、「お姉ちゃんだから我慢できるでしょ」とか「男なんだから泣くな」といったようなありふれた「価値観の押し付け」とほぼ同義だと感じている。自分の意思を無視され、勝手に権力ある誰かや文化の価値観に押し込められるということだ。差別とは、社会的な意味で言うと、マジョリティという権力に価値観を押し付けられていることそのものなのではないか。
相手よりも自分(自分たち)が圧倒的に権力を持っているからこそできることでなのではないか。
出口真紀子さんが以下の文章で、差別におけるこのような特権を「マジョリティ性を多く持つ社会集団にいることで、労なくして得ることのできる優位性」と述べている。
https://co-coco.jp/series/study/makiko_deguchi/
私自身が差別について敏感なのは、自分がある部分でマイノリティであることを強く自覚していたからだと思う。
家のことで仲間はずれにされたり、一般的に見て学力が高い方だったこと、自分の性別に対して嫌悪感を抱いていたことなどである。
多くの人間から自分自身を勝手に定義されることの苦しみは、常にマジョリティであり続けている人間には本当の意味で理解できる機会はない。
自分が加害者であることを認めるのは非常に難しく、なおかつ苦しみを伴う。しかし自分の加害性に目を向けることが最も大切なことであると感じている。
加害性の自覚というのが多くの人間に足りていないものではないかとずっと私は思っている。
自分は差別をしないとか、中立だと思っているとか主張すつ人間もいるが、人間はどうしても自分の思い込みの中で生きるしかないことを自覚しなければならない。
だからこそ指摘されたときに、その言葉を咀嚼する余裕を残しておきたい。
咀嚼するための余裕がない人間がいることも確かだ。そしてその人数は年々貧困化によって増加しているのではないかと懸念している。
上から「差別はだめだ」と押し付けるのではなく、なんとか自発的にそう思えるような環境を作っていきたい。
ただそれには全く勉強が足りていない。自分の子供にちゃんと教えられるだろうか。全く自身がないのが現状だ。
私としては、自分自身が大切にされる経験が人を大切に扱うことに繋がると信じているが、果たしてちゃんとそうなるのだろうか。とても不安である。
哲学は少しだけかじっているが、倫理学については高校の倫理レベルの知識しかほとんどないため、もしおすすめの書籍がある方はぜひ教えてください。
一通り書いてみたが、考えが全くまとまっていないので、また勉強して書かなきゃいけないかもしれませんね。