努力する人・努力できない人

生活保護受給者やホームレスを不要なものと発言し炎上したDaiGo氏の件があり、思うところも多く筆を取ることにした。
DaiGo氏については元々思うところが非常に多いが、今回は人命軽視や能力主義の観点から
自分が思うことを経験を交えて綴っていこうと思う。


まず大前提として、命を奪う権利は誰にもないこと、命がお金持ちや誰かの手によって左右されてはならないことを述べておく。よく「そんなに大事なら自分がお金払って助ければいいのではないか」といった主張をする者がいるが、人の好き好みで命の選択がされるグロテスクさは、多くの歴史や作品がすでに表しているのではないだろうか。結局のところ、権力者にとって都合のいい人間が選ばれ、そうでない人間は最終的に排除されていく。
面白そうだな、救いたいな、と思った人間だけを誰かの気まぐれで救うということは、「救われない人間を選別する」行為と同じことだということを理解しなければならない。だからこそ国の制度という形で基準を定め、法律に則って生活保護費が支給されなければならない。
個人が「救う人間を選別する」ことは「救わない人間を選別する」ことと表裏一体であることを強く主張しておく。

 

今回の騒動で、無視してはならないと思う点が1つある。
それは、なぜこのような思想に至るのか、ということだ。
このような思想に至る必然性を理解しなければ、本当の意味でこの思想から抜け出すことはできないと私は考える。
というのは、実際この私自身が「役に立たない・努力しない人間などいないほうがいい」と考えていたからだ。


以前の記事でも書いたことだが、中学生のとき、部活と塾によって多忙な日々を送り、自分の主張は認められずに抑うつ状態に陥っていたことがある。
定期テストで学年1位を取り続ける私への周囲からの言動は冷たく、そんなに冷たくするなら私より勉強すればいいじゃないかと伝えれば、「頑張っても勉強が理解できない」「教科書を見ると頭が痛くなる」「本を読むのが苦手」と返される。
どれだけ私が勉強に時間を割いても、「天才だもんね」という言葉に塗りつぶされ、自分の頑張りを認めてもらえない中で、溜まったどす黒い気持ちは「努力をしない周囲の人間」への怒りという形で現れた。
実際、私ほど勉強している人間は周囲にいないと思っていたし、無配慮な言葉を投げかけられるたびに「自分が努力しないのが悪いのではないか」と憤っていた。そう言ってくる人間ほど誰かの恋愛話で盛り上がり、他愛のない話題で深夜までメールをしていたりした。
そんなどうしようもない人間の一人である同級生が部活の部長に選ばれたとき、多くの人間は馬鹿な選択をするのだと呆れたのを覚えている。
自分が選ばれるとは微塵も思っていなかったが、人当たりがよいだけで練習はちゃんとしない、裏で先輩の悪口ばかり言っている人間が部長になった事実は、私が同級生の部員を見下すに十分な動機だった。
案の定、4年連続で優勝していた郡市大会で私の中学校は優勝を逃した。当たり前の結果だったが、なんと同級生は泣いていた。
指示された練習メニューもろくにやろうとしなかったのに、優勝できなかったことを悲しんでいたのだ。

このような出来事の中で、私はどんどん次のようなことを思うようになっていった。
「努力をしない、当たり前の未来を予測できないこんなやつらと一緒にされたくない。」
そう思えば思うほど周囲の人間へのあたりは強くなり、私はどんどん孤立を深めていった。
努力すれば努力するほど、ちゃんと努力をしているはずの自分が孤独になっていった。

 

中学の経験で学び後からわかったことだが、多くの人間は指示されたことや自分の未来の利益のために必要なことができない。
将来のためにどのような行動が必要が考え、日常の中で十分に実践することができるのはマイノリティである。
名の知られた4年制の大学に出てそこそこ大きな会社に就職するとなかなか見ないが、地元に戻ると早くに子供を産んで、お金がないのだと困窮している人間はたくさんいる。
日本の賃金が相対的に下がっている事実は一旦置いておいて、地元の人間からするとこれはありふれたことなのである。


高校に入学すると、周囲の環境はガラリと変わり、尊敬できる友人が多くできた。
友人の多くは運動はできなかったが何かの趣味に秀でており、物知りな人間が多かった。
私は高校で大きな挫折をする。
どれだけ頑張っても数学が理解できない。赤点を免れたのは1年生の1学期のみ。どれだけ頑張っても40点を越えることができない。元々苦手意識はあったが、それでも偏差値は60あった。それが高校に上がった瞬間全く理解できなくなり、定期テストの順位も下から数えたほうが早い順位をとっていた。
また、姉が大学に入学して家を出たことで家庭のバランスが崩れた。私がどれだけ頑張って間を取り持っても家族の関係は悪化し続けた。
そして憧れて入った軽音楽部でギターを弾くことになったが、誰も教えてくれる人がおらず、教本を読んでも全くイメージがつかずにまともな弾き方を知ることもできなかった。今ならYoutubeで検索して、どのように弾けばいいか真似をすればいいことがわかるが、当時はそれすらもわからなかった。

 

初めて自分の努力だけではどうしようもない現実にぶちあたった。
そもそもどうすればできるようになるのか、努力の仕方がわからない。助けを求める先もわからない。
助けを求めたとして、助言を実行できるだけの理解力と気力がもう自分には残されていない。
ただTwitterの画面を眺め、まとまらない気持ちを文字にすることしかできない。
無力感に襲われ、自傷行為を繰り返した。好きだった読書ができなくなり、学力も低下した。
「頑張っても勉強ができない」「教科書を見ると頭が痛くなる」「本が読めない」事実が自分にのしかかった。
Twitterで吐き出すことは日々の愚痴と、好きな作品やアーティストへの愛。ニコニコ動画のおすすめ動画のURL。
今のこの自分自身と、自分が馬鹿にしていた人間とどこに違いがあろうか。
つまずいたタイミングが自分より早かっただけではないか。相談できるだけの言葉と友人があるだけ私よりもよほど健全ではないか。

 


羨ましい。ここまで悩む必要がなく、ヘラヘラと自分の好きなことをしている人間たちが心底憎くて羨ましい。
私が苦しんでいる間、他愛のないことで笑い合っているのだ。笑えているのだ。
そのほうが確実に幸せではないか。

 


しかし、これを認めることは、自分が必死に我慢して周囲を見下しながら努力してきたことが無駄だったと認めることと同じなのである。
こんなやつらと一緒にされたくないという気持ちは一種のモチベーションにもなっていた。

 

「自分が頑張ってきたことは無駄でした。あなたたちと同じように何も考えず、私も幸せになりたいです。」

 

こんなことを簡単に認められるはずがない。


『あいつらのほうがよほど幸せそうだが、自分を苦しめてきたあいつらとやっぱり一緒にはなりたくない。
じゃああいつらより幸せになってやろう、どうすれば幸せになれるだろうか。
人のことは信じられないし、とりあえずお金があればいろんなものが得られるはずだ。あいつらが欲しい欲しいと言っていたものが簡単に得られるはずだ。
お金というのは普遍的な価値だ。持っているか持っていないか、それだけで優劣がつけられる。
金を持っていないやつからは金を取れない、金を持っている奴らを集めよう、それ以外の人間はどうでもいい』


こう思ったとしても仕方のないことではないのだろうか。
ここでお金を稼ぐ才能があってしまったのが、DaiGoという人間かもしれない。
稼げてしまった。それ以上の挫折をしなかった。人を頼り、人と歩むことを必要としなかった。


私はそうはならなかった。
それは私の家が裕福であり、「お金持ち」と言われて学校でのけものにされていた過去があったからだ。
お金だけあっても幸せになれないことを知っていた。
そして、大学に入っても挫折を繰り返し、自分の努力だけではどうにもならないことがあることを悟っていたからだ。

 

 

ギターで壁にぶち当たったが、紆余曲折あり大学でも軽音サークルに入ることにした。(この詳細な経緯は今後書く予定)
極力ボーカルに専念したかったが、楽器はできるにこしたことはないこと、挑戦する姿勢を見せたほうが印象が良いことを考えてギターは手放さなかった。しかしもうその頃には苦手意識が染み付いてしまっており、ギターを練習し始めると喉のつっかえと手の震えが生じて、まともに練習することすら難しい状態になっていた。サークルというギターの弾き方を学べる環境を得、先輩の演奏を間近で見て正しい奏法を理解しても、どうしてもギターが思うように弾けなかった。
また、サークルで音響の仕事をすることがあったが、私は同期の中でダントツで音響の調節が下手くそだった。克服しようと月に4回ライブハウスに通っても、どうしても感覚がつかめなかった。

つのらせた無力感はどんどん自分を責める方向に働き、自分のことを「役に立たない人間」だと思うようになった。
その頃にはボーカルとして所属していたバンドは先輩の引退で解散していたし、自分の好きなアーティストを共有できる人間が同期以下の学年にはもう存在していなかった。
必要としてくれる人間がいなくなったと思い込んだ。

 


能力主義、という言葉がある。
言葉の通り、出自や学歴ではなく本人の能力に応じて評価を行う主義のことだ。
一見公平に見える考え方だが、実際は必ずしもそうではないと多くの学者が指摘している。
マイケル・サンデル教授の「実力も運のうち 能力主義は正義か? 」の本が有名かと思う。(まだすべて読めていないのだが)
個人の能力は、生まれた家や文化的資本、環境による要因が大きく、結局のところ質の高い教育をうけられる裕福な家庭の人間が上位を占めてしまう。
「いや、貧しいところから這い上がってきた人間もいる。やればできるはずだ、努力が足りないのだ!」と叫ぶ人間はいるが、そういった人間が極まれであることが問題なのである。皆等しく努力すれば成功できるのであれば、裕福な家庭出身の人間が上位を占めることに説明がつかない。
「自分で努力すれば何でもできる」というのは幻想で、実際は、自分の力だけではなく家庭や環境によって支えられて初めて努力が報われているのである。

 

もし両親の頭がもっと良ければ、数学ができていたかもしれない。
もし私の周囲にギターの知識がある人間が入れば、私はギターを苦手になることがなく、上手に弾けるようになっていたかもしれない。
それでも、やはり自分の家庭環境はどうにもならなかったと思うし、音響がうまくできる未来は想像がつかない。


中学の頃の同級生も同じようなことがあったのではないだろうか。
勉強の仕方がわからず躓いてしまい、苦手意識を持ってしまった。周囲から「馬鹿」だと言われた。馬鹿だから仕方ないのだと。
もしくは自分で馬鹿だと思い込んでしまった。そうして勉強ができなくなった。何をやっても無駄だと言われた。
きっかけは様々あると思う。


私は努力でなんでもできるようになるとは思わない。
「精一杯努力してから物を言え」と主張していた時期もあったが、そもそも努力の仕方がわからない、あったかもしれない好奇心がつぶされてしまっている、もしくは先天的に能力が弱い、などといったことは現実にありふれているのだ。


だから、「努力をしない人間はいても意味がない」なんてことは言えない。
自分自身でどうすることもできない事情を指摘して社会から排除しようとすることは、明確な差別だと思っている。
そして最初の言葉にも戻るが、大前提として、命を奪う権利は誰にもないのだ。

自分が努力した結果成功したのは、自分の努力によるものだけではないことを忘れてはならない。
努力できるだけの才能があり、努力した上で、運良く周囲の環境や人間に恵まれ、運良く才能を持っていた、ということである。

 


努力できる、できないの問題は「ケーキの切れない非行少年たち」の著者である宮口幸治先生の「どうしても頑張れない人たち」を読めば少しはイメージがつくかもしれない。
価格も安く、非常に読みやすい本なのでおすすめである。

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以下は余談である。

中学時代に印象に残ったことがある。
1つ目は、自分が自転車で事故を起こしたとき。車道を走っていたところ前から車が来たため一時的に自転車を歩道に乗り上げようとした際、
ハンドルが狂って歩道の柵に太ももを強打してしまい、倒れたまま動けなくなってしまった。(逆行していた私が完全に悪い)
幸い通学路だったため、約15分後に別の部員が通りかかった。私の大嫌いな部長である。
その部長はちゃんと私を助け、家まで送り届けてくれた。

2つ目は、体育のダンスの授業で、その部長は積極的にダンスの振り付けと指導を行っていた。これがうまいのである。
残念ながら、私は絶望的にダンスのセンスがなかった。球技や陸上競技はそつなくこなせたが、体で何かを表現するという行為が
絶望的にできなかった。私のグループは誰もダンス経験者がいなかったので空中分解したが、その子のグループはかなり様になっていた。
彼女にも得意なものはあったようだ。


ちなみに、その部長が成人式のときのパーティの幹事をしていたそうなのだが、私は呼ばれていない。
送り届けてもらったことがあるので家は知られているはずだが、一体全体どういうことだか招待状は届かなかった。
まあ、そういうこともある。
今でも私はそいつのことが大嫌いである。
知らないところで幸せになっていてほしいです。